「苦登校」という言葉を聞いたことがあると思う。現代の子どもたちの中でも、静かに、しかし確実に浮上してきている。不登校とは異なる、微妙で複雑な子供たちの学校生活の様相を映し出すこの概念は、日本の教育社会が直面する新たな課題を鮮明に照らし出している。
苦登校とは何か
苦登校とは、文字通り「苦しみながら学校に通う」状態を指す。不登校が「学校に行かない」状態であるのに対し、苦登校は「学校に行きたくない」にもかかわらず、「行かざるを得ない」という深刻で心理的な苦痛や身体的苦痛を伴いながら学校へ通う子供たちの状況を意味する。
そういえば筆者自身も、保育園、小学校低学年時代までは、この苦登校に似た心境の中、心理的・身体的に苦しい状況ではあったが、「行かざるを得ない」流れの中で登校していた時期があった。
そんな自身の過去の経験と記憶を相交えながら苦登校という概念を考察する。
苦登校の特徴
表面的な適応ー見えない内なる苦しみ
表面的な明朗さがありながら内なる苦しみを抱える傾向は、苦登校の最も複雑で微妙な特徴である。一見、まったく普通に学校生活を送っているように見える子供たちの内面は、実際には深刻な心理的葛藤に満ちていると思われる。この「適応の仮面」は、外面と内面の矛盾をより自覚させ、苦しみをより深く、そしてより見えにくいものにしてしまう。
学校では明るく振る舞い、友人と会話し、授業に参加する。しかし、その背後では常に強烈な不安と緊張、もしくは身体的・精神的ダメージが渦巻いている。少し大袈裟かもしれないが、例えば、休み時間の些細な会話一つとっても、彼らにとっては極度に神経を使う緊張の瞬間となる。何を話せばいいのか、どう振る舞えばいいのか、常に自分の言動を監視し、批判的に観察している。
教師や保護者は、外見上問題がないように見えるため、彼らの内なる苦しみに気づくことができない。結果として、最も支援を必要としている子供たちが、最も孤立し、見過ごされることになるのだ。それは「心の声」を真正面から放つことのできない繊細な子どもにしか理解し得ないものである。
授業における心理的重圧
授業中、彼らは単なる勉強すること以上の心理的闘争を繰り広げている。質問されることへの恐怖、間違えることへの不安、周囲の目—— これらすべてが彼らの内面に絶え間ない緊張を生み出す。黒板の前に立つことさえストレスとなり得る。
休み時間の社会的緊張
一見くつろぎ、楽しんでいるように見える休み時間も、彼らにとっては神経を使う時間帯でもある。誰と話すべきか、どこに座るべきか、どのように振る舞えばいいのか—— これらの些細な選択が、彼らにとっては大きな心理的重荷となる。
給食・昼休みの社会的複雑性
給食の時間は、社会的相互作用の凝縮された瞬間である。誰と座るか、何を話すか、そして与えられたものを食べ切ることが出来るかなど、その振る舞いの全ての過程が、彼らの不安を増幅させる。一見何気ない食事の時間だが、彼らにとっては極度に神経を使う社会的儀式となるのだ。筆者の小学校時代は、体調の良し悪しに関わらず「給食を残したらいけない」という厳しいルールがあり、昼休みに入っても1人食器を片付けられない状況であった。本来楽しいはずの給食、私にとっては毎日が「給食との闘い」であった。
部活動における心理的葛藤
部活動は、さらに複雑な心理的ダイナミクスを生み出す。チームワーク、競争、人間関係—— これらすべてが彼らの心理的負担を倍加させる。上手にプレーできるか、仲間に受け入れられるか、失敗したらどうなるか—— 常に彼らの内面は不安でいっぱいなのだ。
身体症状ー心の叫びとしての身体反応
心理的ストレスは、身体という最も正直な告白者を通じて表現される。苦登校の子供たちの身体症状は、単なる医学的問題を超えた、彼らの内なる苦悩が言語化されたものであると思う。学校へ行けば体調に異変をきたし、学校から出た途端症状はおさまり、むしろアクティブになる。これは「怠け」では決してない。彼らの心の叫びを軽く捉えてはいけないのだ。
腹痛(内なる恐怖の物理的反応)
腹痛というものは、不安と恐怖の最も典型的な身体的表現の一つ。消化器系は感情と直接つながっており、精神的なストレスは即座に消化器の不調として現れる。学校に向かう朝、テストを控えた瞬間、発表を前にした時—— これらの瞬間に激しい腹痛・鈍い腹痛として現れるのである。
倦怠感ー心理的エネルギーの枯渇
常に緊張状態にあることは、相当なエネルギーを消費する。結果として、身体的な疲労感、倦怠感が慢性化する。彼らは物理的に疲れているだけでなく、心理的にも完全に疲弊する瞬間があると思われる。
睡眠障害ー夜も続く不安
夜になっても彼らの不安は消えない。明日の学校生活への恐怖、今日の出来事への反芻—— これらが睡眠を妨げ、質の悪い、断片的な睡眠パターンを生み出す。朝、疲れ果てた状態で学校に向かうことになるのだ。
これらの特徴は、決して個々に偶発的に発生する問題ではない。それは現代の教育システム、社会構造、人間関係の複雑さが生み出す、極めて現代的な苦悩の現れなのである。
苦登校の背景にあるもの
いじめの影響
現代の学校におけるいじめは、かつてないほど複雑で巧妙になっている。現実問題、SNSの普及により、物理的な空間を超えて継続する心理的暴力は、子供たちに深刻な傷を負わせている。
過度な競争社会
受験競争、偏差値、成績—— これらの数値によって子供たちの価値が測られる社会システムが、彼らの自己肯定感を著しく低下させている。常に評価されることへの恐怖と不安が、苦登校を生み出す土壌となっている。
家庭環境の変化
核家族化への変化は、子供たちにとって重大な影響をもたらした。多世代交流の減少は、年長者からの知恵や生活経験の継承を困難にし、社会性や人間関係構築能力の育成に大きな影響を与えている。祖父母や親戚との日常的な接触が減少することで、子供たちは社会的スキルを学ぶ機会を失いつつある。
1990年代以降、共働き世帯が急増し、2020年には共働き世帯が専業主婦世帯を大きく上回るようになった。この変化は、子供たちの家庭生活に根本的な変革をもたらした。ただ、単純に専業主婦世帯の時代が、子どもをすくすくと育てる要因となったと結論づけるつもりはない。要は人間同士のコミュニケーションの欠如・不足、多忙極まる働き親世代の感情変化に伴い、子どもへの影響が少なからず生まれてしまっていることが本質的問題なのである。子どもの情緒的ニーズが十分に満たしているとは言えないのではないだろうか。
家庭内時間の減少
上記と密接に関わるが、親との直接的な接触時間が劇的に減少し、子供たちは学童保育や放課後サービス、塾など、家庭外の環境で過ごす時間が増加している。これにより、家庭内でのコミュニケーションや情緒的な安定性が著しく低下している。
家庭内プレッシャーと心理的影響
親の仕事のストレスが家庭内に持ち込まれやすくなっている。読者も記憶を辿ってみてほしい。子供は親のストレスを敏感に感じ取る。その感じ取ったものからどんな思考や行動へ転化されるか。子どもの内から良くも悪くもさまざまな情報が得られ便利で有益な世の中になった反面、情報の取捨選択の術を知らないまま、「正しい想像」が出来なくなっているのではないだろうか。
スマホと家族コミュニケーション
スマホの普及は、家族のコミュニケーションのあり方を根本的に変えた。家族が同じ空間にいながら、それぞれ異なる画面を見つめる「並行的孤独」が常態化している。スマホの中から湧き出た話題で盛り上がることは一見すると家族の会話として成り立つものに見えるが、それは本当のコミュニケーションのあるべき姿ではない。
また、SNSを否定するつもりは毛頭ないのだが、子供たちは、直接の対話、表情をリアルタイムで掴み取る会話の機会が減少し、幼き頃から、自己顕示欲求や承認欲求が先に、成長の中心に据えられてしまっている部分については、”古い考え”の筆者からすれば憂慮せざるを得ない。
不登校を選択できず「苦登校」を強いられる子どもたちは、現代に限らず昔も少なからず存在していたし(筆者も実際そうであった)、現代の問題として責任を押し付ける書き方とはなってしまったが、最も重要なのは、「共感」と「対話」を日常的に育むことである。現代の親世代は、経済的プレッシャーや競争社会の影響から、子供との深い対話や感情交流の時間を十分に確保できていない傾向にある。子供の内面に寄り添い、子どもの感情を出来るだけ言語化をアシストし、そして尊重する姿勢が求められるのではないだろうか。
まとめ
潜在的に存在している「苦登校」は、個々の問題ではない。それは社会の構造的な課題を鮮明に映し出す鏡である。子供たちの声にもっと真摯に耳を傾け、彼らの可能性を最大限に引き出す社会を築くことが私たち大人に課せられた使命であると思う。
一人ひとりの子供が、自分らしく、安心して学び、成長できる環境。それは決して遠い理想ではない。私たち全員の意識と行動によって、今、ここで実現できるはずである。