
私たちは今、かつてないほど容易に他人の秘密を暴くことができる時代を生きている。スマートフォン一台あれば、誰もが発信者になれる。そして、その発信は瞬く間に拡散され、時として取り返しのつかない事態を引き起こすこともある。「暴露」という言葉が、これほどまでに軽々しく使われる時代があっただろうか。
暴露の正体とは何か?
先日、あるSNSで見かけた投稿が私の心に引っかかっている。ある飲食店の従業員が、店の衛生管理の問題点を暴露したものだ。確かにその内容は看過できないものであり、公益性という観点からすれば、告発には一定の意義があったかもしれない。しかし、その投稿には何か違和感があった。投稿者の言葉の端々に、暴露することそのものへの快感のようなものが垣間見えたのだ。
実際、投稿は瞬く間に拡散され、数万件のいいねやリポストを集めた。コメント欄には「正義の告発者」を称える声が溢れ、店舗への批判が殺到した。しかし、その後の調査で明らかになった事実は、投稿者が主張していた内容とは異なるものだった。だが、その訂正投稿が広まることはなく、店舗は深刻な風評被害を被ることとなった。

SNSが作り出す新しい正義
現代のSNSには、ある種の歪んだ正義が存在している。それは、誰かを批判し、暴露することで得られる「正義の味方」という立場だ。批判をすることで優越感に浸り、同じような考えを持つ人々と結束を深める。この構図は、まるで学生時代にあった「スクールカースト」のような印象すら受ける。
かつて「2ちゃんねる」は「便所の落書き」と揶揄された。しかし、現代のSNSはそれ以上に深刻な問題を抱えているのではないだろうか。なぜなら、SNSでの発言は実名性が強く、その影響力は比較にならないほど大きいからだ。
失われゆく想像力
最も憂慮すべきは、暴露された側の痛みに対する想像力の欠如だ。誰かの秘密を暴くということは、その人の人生を大きく変えてしまう可能性を持つ。それは単なる「正義の実現」では済まされない重大な行為なのだ。
先日、ある芸能人が過去の女性問題について暴露され、大きな騒動となった。確かにその内容は世間の興味を引くものだったかもしれない。しかし、その暴露によって、結果的に関係者たちの日常が完全に破壊されてしまった。家族との関係も、仕事も、全てが影響を受けることとなった。
なぜ人は暴露したがるのか
興味深いことに、SNSでの暴露は一種の承認欠乏症候群の現れとも言える。誰かの秘密を暴くことで注目を集め、自己の存在価値を確認しようとする。それは現代社会が抱える深刻な問題の一つの表れかもしれない。
また、SNSのアルゴリズムも、この問題を助長している。センセーショナルな投稿ほど高い表示優先順位を獲得し、より多くの人の目に触れることになる。つまり、システム自体が暴露や批判を促進する仕組みになっているのだ。
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