昨今、テレビ業界を揺るがす不祥事や問題が相次いで報道され、かつて「茶の間の主役」と呼ばれたテレビメディアの存在意義が、改めて問われている。筆者が特に気になる疑問としているのが「自主規制」の問題だ。視聴者保護という建前で行われてきた自主規制は、結局誰のために、何のために行われているのか。今回はその疑問に迫ってみたい。
揺らぐテレビの信頼性 ~相次ぐ不祥事と問われる体制~
2024年末から年明けにかけての週刊誌報道では、いわゆるフジテレビ問題が世間の注目の的とされ、テレビ業界や各スポンサーに大きな衝撃が走った。SNSにおいても瞬く間に拡散され、現在においても様々な意見が飛び交っていた。この問題をきっかけに、複数の大手スポンサー企業がCM出稿を見合わせる事態となり、テレビ局の経営にも影響を及ぼしている。フジテレビ側は外部の調査委員会を設けて調査を開始したが、果たしてどのような事実が浮かび上がってくるのだろうか。
黄金期のテレビジョン ~失われた公共性と信頼~
話は遡る。1953年のテレビ放送開始から以降1980年代まで、例えていうのであればテレビは「社会の木鐸(ぼくたく)」としての役割を果たしてきたように思う。1972年の札幌冬季オリンピック、1964年の東京オリンピックなど、国民的イベントの放送を通じて、テレビは社会の一体感を醸成する重要な存在だった。
報道面でも、1972年の浅間山荘事件の実況中継など、視聴者の「知る権利」に応える質の高いジャーナリズムを展開してきた。この時代、テレビは確かに「国民の目」として機能していたと感じる。
しかし、バブル期以降はどうだろうか。徐々にその姿勢は変化していく。視聴率競争の激化と広告収入への依存度の高まりにより、スポンサーへの配慮が優先されるようになった。「自主規制」の名の下に、本来報道すべき問題もスルーしているケースも増えていったように思う。
スポンサーと視聴率の呪縛 ~歪められる真実~
テレビ局の収入の大半を占めるのが広告収入である。その構造上、スポンサー企業への配慮は避けられないのは当然であろう。しかし、それが行き過ぎると、報道の中立性や公平性が損なわれる。具体的には少々極端な例としては以下のような事例が指摘されている。
スポンサー企業の不祥事や問題を報道しない、あるいは極めて控えめな報道に留める。環境問題や健康被害の可能性がある商品の問題を取り上げない。特定の主張に偏った報道を行う。これらは全て、「自主規制」という名の下で正当化されてきた。
変わる視聴者の意識とメディアの多様化
しかし、インターネットとSNSの普及により、状況は大きく変化している。視聴者は、テレビ以外の情報源から、様々な事実や異なる視点を得られるようになった。テレビが報じない情報も、SNSを通じて瞬時に拡散される。
現在は特に若い世代を中心に、テレビ離れが加速しているのは周知の事実。調査によれば、20代の約7割が「ほとんどテレビを見ない」と回答している。実際筆者の周りにも若いスタッフがいたが、聞いてみると、「テレビを見ずに、youtubeの好きな番組だけを見ている」という話もあった。その核たる理由として、情報が偏っているのではないか、真実を伝えていないのではないかという不信感も挙げられるだろう。
新たな時代に求められるテレビの役割
では、テレビは今後どうあるべきなのか。まず必要なのは、「自主規制」の本質的な見直しではないだろうか。本当の意味での視聴者保護や公序良俗の維持という本来の目的に立ち返り、スポンサーへの過度な配慮や、都合の悪い情報の隠蔽といった歪んだ実践を改める必要があると思う。
それと同時に、視聴者との新たな信頼関係を築くためにどうしたら良いのかも重要である。情報の出し方や伝え方を透明化し、なぜその情報を取り上げるのか、あるいは取り上げないのか、その判断基準を明確にすべきだ。
また、スポンサー収入に過度に依存しない、新たなビジネスモデルの模索も必要だろう。サブスクリプションモデルの導入や、視聴者からの直接的な支援など、様々な可能性を検討すべき時期に来ている。
まとめーテレビの本来の使命とは
テレビという媒体は、依然として強力な影響力を持っている。だからこそ、その影響力の行使には大きな責任が伴う「自主規制」は、本来、その責任を全うするための手段であって、真実を隠蔽したり、特定の利害関係者を保護したりするためのものではない。
また今回の記事は「テレビはオワコン」と言うつもりは決してない。テレビに育てられてきた世代はきっと今、テレビに対して厳しい意見を投げかけているだろうが、それはテレビが「古き良き時代のあの感じ」に戻って欲しいから、頑張って欲しいと思っての行動のはずである。
これからのテレビに求められるのは、「社会の木鐸」としての原点回帰だ。視聴者の「知る権利」に真摯に向き合い、時には権力や既得権益と対峙しながら、社会の健全な発展に貢献する存在であるべきだ。
そのためには、テレビ局自身のガバナンスとコンプライアンスの強化も不可欠だ。第三者による監視機能の強化や、視聴者からのフィードバックを積極的に取り入れる仕組みの構築など、具体的な改革が必要となる。
「自主規制」は決して「自己保身」であってはならない。それは、視聴者との信頼関係を築き、より良い社会の実現に貢献するための重要な手段として機能すべきものなのだ。テレビ業界は今、その原点に立ち返り、新たな時代における存在意義を示していく必要がある。