
完璧すぎる才能がもたらす予想外の世界
絶対音感と聞くと、多くの人は「羨ましい才能」「音楽家に必須の能力」といったポジティブなイメージを抱くだろう。確かに、音を聴いただけで「これはドの音」「あれはファ#」と瞬時に判別できる能力は、まるで超能力のように思える。しかし、この特殊な才能を持つ人々の日常には、私たちが想像もしない苦労や不思議な体験が潜んでいる。
絶対音感とは、基準音がなくても音の高さを正確に識別できる能力のことである。一般的な人が持つ「相対音感」は、ある音を基準にして他の音との関係性で音程を把握するのに対し、絶対音感保持者は音そのものを絶対的な値として認識する。この違いが、彼らの世界を根本から変えてしまうのだ。
日常のあらゆる音が「ドレミ」に聞こえる不思議
絶対音感を持つ人にとって、世界は常に音楽で満たされている。それも、私たちが感じる漠然とした「音」ではなく、明確な音名を伴った「音楽的情報」として耳に飛び込んでくるのだ。
例えば、朝起きて最初に聞こえる目覚まし時計のアラーム音。私たちには単なる「ピピピ」という警告音だが、絶対音感保持者には「ラ、ラ、ラの音が440Hzで鳴っている」と認識される。冷蔵庫のモーター音は「ソ#の持続音」、電子レンジの完了チャイムは「ミ・ド・ソの和音」、踏切の警報音は「ミとレが交互に」といった具合である。
さらに興味深いのは、人の話し声や咳払い、くしゃみまでもが音程として認識されることだ。「あの人の笑い声はいつもF#から始まる」「上司の咳払いはいつもC音」などと、無意識のうちに音名がラベリングされてしまう。これは、色覚を持つ人が物を見たときに自然と色を認識するのと同じような、逃れようのない知覚なのである。
こうした日常音の音楽化は、一見すると楽しそうに思えるかもしれない。しかし、絶えず音名が頭の中を駆け巡る状態は、想像以上に疲労を伴うものなのだ。特に都市部の喧騒の中では、車のクラクション、工事現場の音、人々の話し声が複雑に絡み合い、まるで不協和音の嵐に巻き込まれているような感覚に陥ることもあるという。
音程のズレが気になって仕方がない苦悩
絶対音感を持つ人々が抱える最大の困りごとの一つが、「微妙な音程のズレ」に対する強烈な違和感である。これは、完璧な音感を持つがゆえの、ある種の呪いとも言える現象だ。
カラオケボックスで友人たちと楽しく歌っているとき、あるいはテレビから流れる音楽番組を見ているとき。原曲との微妙なキー違いや、伴奏と歌のずれに気づいてしまう。特にカラオケでは、機種によって原曲よりも半音や全音キーが上下していることがあり、そうした音程の不一致が彼らにとっては非常に気持ち悪く感じられるのだ。
また、生演奏においても悩みは尽きない。アマチュアバンドの演奏はもちろん、時にはプロのライブですら、チューニングのわずかなズレや、演奏中の音程の揺らぎが気になってしまう。周りの人々が感動的な演奏に酔いしれている中、絶対音感保持者だけが「今のフレーズ、20セントくらい低かった」などと気づいてしまい、純粋に音楽を楽しめないことがあるという。
さらに厄介なのは、古いレコードやテープの再生である。アナログメディアは経年劣化や再生速度のわずかなズレによって、原曲とは異なるピッチで再生されることがある。思い出の曲をノスタルジックに聴こうとしても、「なんだかピッチが違う」という違和感が先立ってしまい、感傷に浸ることができないのだ。これは、色覚異常の人が赤と緑の区別に苦労するのとは真逆の状況で、「正確すぎる知覚」が情緒的な体験を阻害してしまうという皮肉な現象である。
移調された音楽が別の曲に聞こえる奇妙な感覚
絶対音感を持つ人にとって、音楽のキー(調)は単なる高さの違いではなく、曲のアイデンティティそのものである。同じメロディーでも、ハ長調で演奏されるのとニ長調で演奏されるのでは、まったく別の曲として認識されてしまうのだ。
例えば、誰もが知る「きらきら星」のメロディー。一般的な相対音感の人にとっては、どの高さから始まろうと「きらきら星」は「きらきら星」である。しかし絶対音感保持者にとっては、ハ長調の「ドドソソララソ」と、ニ長調の「レレララシシラ」は、まったく異なる音列として脳に刻まれる。これは、同じ文章でも日本語と英語では別物として認識されるのに近い感覚かもしれない。
この特性は、音楽を演奏する場面でも意外な困難を生む。カラオケで歌いやすいように原曲からキーを変更すると、伴奏の音名が全て変わってしまい、まるで知らない曲を歌っているような混乱に陥ることがあるという。また、楽器を演奏する際にも、移調譜を読むことに強い抵抗を感じる人が多い。楽譜に書かれた音名と実際に鳴る音が異なるB♭管クラリネットやF管ホルンなどの移調楽器は、絶対音感保持者にとって非常に扱いづらい存在なのだ。
さらに、この特性が音楽の記憶にも影響を与えることである。絶対音感を持つ人は、曲を音名のシーケンスとして記憶する傾向があるため、違うキーで演奏された同じ曲を「別の曲」として記憶してしまうことがある。結婚式でよく耳にする「パッヘルベルのカノン」も、オリジナルのニ長調ではなくハ長調で演奏されると、「あれ、この曲知ってるけど何か違う」という妙な違和感を覚えるのだ。
サイレンや警報音が不協和音で精神的ストレスに
現代社会には、安全を守るための様々な警報音が溢れている。救急車や消防車のサイレン、踏切の警報音、防災無線の放送音。これらの音は、誰もが気づくように意図的に耳障りな音響設計がなされている。そして、絶対音感を持つ人々にとって、これらの音はただ不快なだけでなく、音楽理論的に「間違っている」音として認識されることがあるのだ。
例えば、救急車のサイレンは一般的に「ピーポーピーポー」という2つの音程を交互に鳴らす設計になっているが、この音程関係が完全な半音や全音といった音楽的な音程ではなく、微妙に外れた音程であることが多い。絶対音感保持者にはこれが不協和音として強烈に響き、サイレンが通り過ぎた後も頭の中でその「気持ち悪い音程」が残響してしまうという。
踏切の警報音も同様である。多くの踏切では2つの音が交互に鳴るが、この音程が長3度や短3度といった協和音程ではなく、中途半端な音程であることが多い。音楽的な訓練を受けた絶対音感保持者にとって、こうした「理論から外れた音程」は非常に居心地の悪いものなのだ。まるで、文法が滅茶苦茶な文章を延々と読まされているような不快感と言えば、分かりやすいかもしれない。
さらに、最近増えている電子音による警報や通知音も曲者である。スマートフォンの通知音、コンビニの入店チャイム、駅の発車メロディー。これらの音は、デザイナーによって様々な音程で設計されているが、中には音楽理論的に「なぜその音程を選んだのか」と首を傾げたくなるような組み合わせも存在する。こうした音を聞くたびに「ああ、もう少しこうすれば美しい和音になるのに」「この音程関係は気持ち悪い」などと無意識に分析してしまい、日常的な疲労の原因となっているのだ。
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