
増殖する「配慮が足りない人」
電車内でスマホの音を垂れ流す人、歩きながら急に立ち止まる人、会議で延々と自分語りをする人。現代社会を観察していると、ある共通項が見えてくる。それは「配慮が足りない人」の増加である。もちろん、すべての人がそうだというわけではない。しかし、自分本位で周囲への想像力が欠如した行動が、じわじわと社会全体の空気を息苦しくしているのは事実だ。
こうした人々の多くは自分の行動を問題視していない。悪意があるわけではない。ただ、他者の存在が視界に入っていないのだ。その結果、小さな迷惑が積み重なり、社会全体のストレスレベルが上昇する。まさに負の連鎖である。
今回のコラムは、そんな配慮が足りない人の残念な特徴を30個ピックアップし、現代社会の縮図として分析してみたい。自戒の念も込めて、この問題を掘り下げていく。
特徴1|公共空間を自室と勘違いする
最も顕著な特徴は、公共空間と私的空間の境界線が曖昧になっている点だ。電車の座席に荷物を広げ、カフェで長電話をし、図書館で菓子を食べる。こうした行動の根底には「この場所は自分のものだ」という無意識の思い込みがある。
公共空間とは、多様な人々が共存するための暫定的な共有地である。そこには見えないルールがあり、互いの快適さを保つための微妙なバランスが存在する。ところが、配慮の足りない人はこのバランス感覚を持ち合わせていない。スマホで動画を視聴する際にイヤホンを使わないのは、周囲の人々がその音に耐えなければならないという発想自体がないからだ。
これは個人主義の歪んだ発展形とも言える。自分の自由を最大限に享受することは尊重されるべきだが、それは他者の自由を侵害しない範囲でのみ許される。公共空間を自室化する人々は、この原則を理解していないのである。
特徴2|自分にとっての便利さを絶対視する
配慮が足りない人は、自分にとってのみの便利さを判断基準の中心に置く。駐輪場ではなく店の入り口に自転車を停め、エレベーターのドア前に立ち塞がり、混雑した通路でカートを放置する。すべては「自分が楽だから」という理由である。
コンビニのレジで延々と商品を選び続ける人、改札前で立ち止まって切符を探す人、エスカレーターの真ん中に立って通路を塞ぐ人。彼らに共通するのは、自分の行動が後続の人々にどれほどの影響を与えているかという想像力の欠如である。自分の小さな便利さのために、社会全体に小さな不便を強いているという自覚がないのだ。
特徴3|子供を放置して騒がせる
レストランで走り回る子供を注意せず、公共交通機関で大声を出させ続け、集合住宅で夜遅くまで騒音を出させる。親としての監督責任を放棄し、「子供だから仕方ない」という免罪符で配慮を欠いた状態を正当化する人がいる。
子供が騒ぐのは自然なことだ。エネルギーに満ち、周囲への影響を理解する能力がまだ発達していない。しかし、だからこそ親の役割が重要になる。子供に社会のルールを教え、場に応じた振る舞いを身につけさせる。それが教育であり、親の責任である。ところが、配慮の足りない親はこの責任を放棄する。
「子供だから仕方ない」という言葉は、ある程度までは通用する。しかし、それは親が最大限の努力をした上での話だ。何の制止もせず、スマホに夢中になっている親が言えば、それは単なる言い訳に過ぎない。周囲の人々は子供を責めているのではなく、親の態度を問題視しているのだ。子供を持てば、あらゆる配慮が必要になることを自覚しなければいけない。そして、子供に配慮の姿勢を見せることこそが、最良の教育なのである。
特徴4|列に割り込む思考回路
順番を守らない人間ほど、配慮の欠如を象徴する存在はない。レジの列に横から入り込み、エレベーターで降りる人を待たずに乗り込み、並んでいる人を無視して窓口に直行する。ルールという概念が彼らの頭の中には存在しないかのようだ。
列とは、限られたリソースを公平に分配するための社会的な仕組みである。先着順という単純明快なルールによって、誰もが平等に機会を得られる。この秩序を維持するために、人々は自分の時間を投資して待つ。割り込みは、この投資を踏みにじる行為だ。
割り込む人の多くは自分の行為を正当化する論理を持っている。「急いでいる」「少しだけだから」「気づかなかった」。しかし、列に並んでいる人も同じように急いでいるかもしれないし、誰もが自分の時間を大切にしている。自分の事情だけを特別視し、他者の事情を無視する。この思考パターンが、社会の公平性を蝕んでいくのである。
特徴5|ゴミを平気で放置する
自分が出したゴミを片付けないという行動ほど、配慮の欠如を視覚的に示すものはない。映画館の座席に飲み物のカップを残し、公園のベンチにコンビニ袋を置き去りにし、道路上にゴミを捨て、駅のホームに吸い殻を捨てる。清掃する人の労力を一切考慮していないのである。
ゴミの放置は、「誰かが片付けてくれる」という他人依存の極致である。確かに清掃スタッフがいる場所もある。しかしそれは、本来そこにあるべきでないゴミまで放置していい理由にはならない。自分が使ったものを元に戻す、自分が汚したものを綺麗にする。これは人間社会の最も基本的なマナーだ。
さらに深刻なのは、ゴミの放置が連鎖反応を引き起こすことである。一つのゴミが放置されていると、他の人も「ここは捨ててもいい場所だ」と認識してしまう。やがてその場所はゴミだらけになり、環境が荒廃する。一人の配慮の欠如が、場所全体の質を下げてしまうのだ。これは「割れ窓理論」の典型例と言える。
特徴6|音の暴力に鈍感
聴覚的な配慮の欠如は、現代社会における大きなストレス源となっている。深夜の住宅街で大声で電話する人、カフェでキーボードを激しく叩く人、電車内で音漏れするヘッドホンをつけている人。そして最近ではスマホで音楽を大音量でたれ流す若者たち。音に対する感受性が異常に低いのである。
人間の聴覚は、視覚と違って遮断することが難しい。目は閉じられるが、耳は閉じられない。だからこそ、音環境への配慮は特に重要なのだ。しかし、配慮が足りない人はこの点を理解していない。自分が出している音が他者にとってどれほど不快かという想像力が働かないのである。
興味深いのは、こうした人々の多くが、自分が騒音の被害者になったときには激しく憤るという点だ。隣人の生活音に文句を言いながら、自分は深夜に掃除機をかける。他人のイヤホンの音漏れには敏感なのに、自分のスマホの着信音は爆音に設定している。この二重基準こそが、配慮の欠如の本質を表している。
特徴7|返信という概念が存在しない
デジタルコミュニケーションの時代において、返信の遅さは新たな配慮欠如の形態として浮上している。メッセージを読んだことは既読で示されるのに、返事は一向に来ない。仕事の連絡すら放置され、相手は宙ぶらりんのまま待たされる。
もちろん、即座に返信できない状況は誰にでもある。問題なのは、返信が必要な内容であることを認識しながら、それを後回しにし続け、最終的には忘れてしまうパターンだ。こうした人々にとって、返信は義務ではなく、気が向いたらする任意の行為なのである。
特に仕事の場面では、この配慮の欠如が深刻な問題を引き起こす。プロジェクトの進行が返信待ちで止まり、チーム全体の生産性が低下する。しかし、当の本人は「忙しかった」という一言で済ませてしまう。相手が自分の返信を待っている間、どれほど不安を感じているかという想像力がまったく働いていないのだ。
特徴8|場の空気を読む気がない
この場合、状況把握能力が著しく低い。葬儀の場で大声で笑い、真剣な会議中にくだらない冗談を言い、誰もが急いでいる朝の通勤ラッシュでのんびりと歩く。周囲の雰囲気や文脈を読み取る能力が欠如しているのである。
日本社会では特に「空気を読む」ことが重視されるが、これは決して日本だけの特殊な文化ではない。どんな社会にも、状況に応じた適切な振る舞いというものが存在する。それは言語化されていないルールであり、成熟した社会人なら自然と身につけているはずの感覚である。
しかし、配慮の足りない人はこのセンサーが壊れているか、あるいは最初から搭載されていない。病院の待合室で大声で電話をし、映画館で何度もスマホを確認し、静かなレストランで子供を放置して走り回らせる。「この場面で自分がどう振る舞うべきか」という基本的な判断ができないのである。
特徴9|謝罪のコストを払わない
配慮の欠如が最も露骨に表れるのは、謝罪の場面である。明らかに自分が間違っているのに謝らない、形だけの謝罪で誠意が感じられない、あるいは謝罪のついでに言い訳を並べ立てる。こうした態度は、他者への配慮の根本的な欠如を示しているどころか、人間性を疑われる。
謝罪とは、相手の感情を尊重し、自分の行動がもたらした影響を認める行為である。それには心理的なコストが伴う。プライドを一時的に脇に置き、自分の非を認めなければならない。配慮が足りない人は、このコストを払うことを極端に嫌う。
どうしようもなく哀れなのは、謝罪を「負け」だと捉える価値観である。謝ることで自分の立場が弱くなると考え、できるだけ謝罪を避けようとする。結果として、簡単な謝罪で済んだはずの問題が大きくこじれ、人間関係に深い亀裂が生じる。短期的なプライドを守るために、長期的な信頼を失っているのだ。
特徴10|デジタルマナーが皆無
スマートフォンの普及は、新たな配慮欠如の形態を生み出した。歩きスマホで人にぶつかり、食事中ずっとスマホを見続け、会話の相手がいるのに突然SNSをチェックし始める。デジタルデバイスが、対面コミュニケーションよりも優先されるのである。
この現象の根底にあるのは、目の前の人間よりもスマホの向こう側の世界を重視する価値観だ。友人と食事をしていても、SNSの通知が来れば即座に反応する。会議中でもメッセージが届けば隠れて返信する。物理的には同じ空間にいても、意識は常に別の場所にある。
この行動が相手に与える心理的影響への無理解であるという状況は、突き詰めると本当に酷い。目の前で話している相手がスマホばかり見ていたら、自分の話に興味がないのだと感じるのは当然だ。しかし、配慮の足りない人はこの感情を理解しない。「話は聞いている」と言うが、それは耳に音が入っているというだけで、心から聞いているわけではない。
特徴11|注意されても変わらない
指摘を受けても行動を改めないというのもある。周囲から何度注意されても、同じ過ちを繰り返す。それは学習能力の欠如というより、他者の意見を真摯に受け止める姿勢の欠如なのだ。
配慮のある人は、自分の行動が他者に迷惑をかけていると知れば、すぐに改善しようとする。しかし、配慮の足りない人は違う。注意を「攻撃」と受け取り、防衛的になる。あるいは表面的には理解したふりをして、結局何も変えない。自己改善のための貴重なフィードバックを、単なる雑音として処理してしまうのである。
この態度の背景には、「自分は正しい」という固定観念がある。他者の視点を取り入れる柔軟性がなく、自分の行動パターンを絶対視する。結果として、同じ失敗を繰り返し、周囲からの信頼を失い続ける。そして最終的には「あの人には何を言っても無駄だ」と見放されることになる。
特徴12|境界線を平気で越えてくる
配慮が足りない人は、他人のパーソナルスペースや心理的境界線を尊重しない。初対面なのに馴れ馴れしく肩を叩き、プライベートな質問を遠慮なく投げかけ、断られても何度も同じ誘いを繰り返す。「ノー」という言葉を理解しないのである。
人間関係には目に見えない境界線が存在する。物理的な距離感もあれば、心理的な距離感もある。どこまで踏み込んでいいのか、どんな話題なら許されるのか。これらは相手との関係性や文脈によって変わる繊細なラインだ。しかし、配慮の足りない人はこの境界線が見えていない。
特に厄介なのは、自分の行動が相手を不快にさせているという自覚がないことだ。「結婚しないの?」「子供は作らないの?」「給料いくら?」といったデリケートな質問を、悪気なく投げかけてくる。相手が曖昧な返答をして話題を変えようとしても、さらに追及する。こうした行動は、相手の心理的安全性を脅かす暴力なのだが、本人にはそれがわからない。
特徴13|感謝の言葉を知らない
「ありがとう」という簡単な言葉すら口にしない人がいる。ドアを開けて待っていても会釈もなく通り過ぎ、仕事を手伝ってもらっても当然という顔をし、プレゼントをもらっても素っ気ない反応しか示さない。感謝という感情が欠落しているかのようだ。
感謝の表明は、人間関係における最も基本的な潤滑油である。それは相手の行為を認識し、価値を認めているというメッセージだ。たとえ小さな親切でも、感謝の言葉があればその行為は報われる。逆に感謝がなければ、どれほど尽くしても虚しさだけが残る。
配慮の足りない人が感謝を示さない理由はいくつかある。まず、他人の親切を「自分が受けて当然のサービス」と捉えている場合。次に、そもそも相手が何かをしてくれたことに気づいていない場合。そして最悪なのは、感謝を示すことで自分が下の立場になると考え、意図的に避けている場合だ。いずれにしても、こうした態度は周囲の善意を枯渇させる毒となる。
特徴14|予定をドタキャンする常習犯
約束を軽く扱う人は、配慮の欠如の典型例である。前日や当日になって軽い理由でキャンセルし、複数人の予定を何度も変更させ、最悪の場合は連絡すらせずに現れない。彼らにとって約束とは、状況に応じて自由に破棄できる仮の予定に過ぎないのだ。
約束とは社会契約の最小単位である。互いに時間を確保し、場合によっては他の予定を断り、その日に向けて準備をする。一つの約束の裏には、複数の人の時間調整と期待が積み重なっている。それを軽々しくキャンセルすることは、この信頼のネットワーク全体を破壊する行為だ。
ドタキャンを繰り返す人は、自分がキャンセルされることには敏感に反応するという厄介な性質がある。自分の都合でキャンセルするのは平気なのに、相手からキャンセルされると「裏切られた」と憤る。この非対称性こそが、配慮の欠如の本質を表している。相手の時間や気持ちを想像する能力が根本的に欠けており、自分本位の究極点とも呼べる。
特徴15|SNSで配慮なく晒す

許可なく他人の写真をアップし、プライベートな会話・クローズドな空間でのメッセージなどをスクリーンショットして拡散し、個人が特定できる情報を含んだ投稿をする。デジタル空間における他者の権利を一切考慮していないのだ。
SNSの特徴は、情報が瞬時に広がり、半永久的に残り続けることである。一度投稿された内容は、削除しても誰かがコピーを持っている可能性がある。つまり、SNSでの配慮の欠如は、リアル空間でのそれよりもはるかに深刻で長期的な影響を持つのだ。
しかし、配慮の足りない人はこのデジタルの特性を理解していない。「面白いから」「イライラするから」「みんなに見せたいから」という理由だけで、他人のプライバシーを侵害する。写真に写り込んだ背景から住所が特定されるリスク、投稿内容から個人情報が漏れる危険性、ネット上で永遠に残り続ける記録。こうしたリスクを想像する能力が欠如しているのである。
特徴15|弱者への配慮が皆無
配慮が足りない人の本質が最も露骨に現れるのは、社会的弱者への態度である。高齢者が乗ってきても席を譲らず、車椅子の人が困っていても素通りし、妊婦マークをつけた人を押しのけて座席を確保する。自分より立場の弱い人への思いやりが完全に欠落しているのだ。
優先席の問題は象徴的である。優先席は、社会全体で弱者を支えるという合意の物理的表現だ。若く健康な人が一時的に快適さを譲ることで、それを必要とする人が助かる。このギブアンドテイクが社会の基盤を作る。しかし、配慮の足りない人はこの社会契約を理解しない。「自分が座りたいから座る」という利己的な判断だけで行動する。
さらに深刻なのは、弱者への配慮を求められると「権利の押し付けだ」と反発する態度である。困っている人を助けることを「義務」と感じ、それに抵抗する。しかし、配慮とは義務以前の、人間としての基本的な感性の問題だ。誰もがいつかは弱者になる。その時に助けてもらえる社会を作るには、今、自分が配慮を示す必要がある。この相互扶助の原理を理解できない人は、成熟した一端の社会人とは言えないのである。
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